島田雅彦『亡命旅行者は叫び呟く』(福武文庫)


亡命旅行者は叫び呟く (福武文庫)

亡命旅行者は叫び呟く (福武文庫)


@現実逃避の読書、その2。


 憂国の人、島田雅彦の2番目の著作が、地下鉄駅内の古書店で売られており、思わず手に取る。



 物語は、「戦後日本人」の二つの典型(「ウチ」では従順で、「ソト」では性欲の満足しか考えないしがない公務員と、
 マザコンアナーキズムシニシズムとが渾然一体となった、旅人きどりのお坊ちゃん)との二人を軸としながら、
 それぞれが、それぞれのかたちで「伴侶」を得ていくまでが語られる。


 妙な感慨になるけど、読了し、「ああ、村上龍島田雅彦とは同世代の作家なんだ」と感じてしまったのだった。

 

 日本人とは、近代というハリボテばかりが所狭しと並べられた舞台の上で、スタニスラフスキーシステムか何かで
 精一杯現実に近づこうと演技する役者のことだ。欧米直輸入の近代に合成着色料めいた大和民族のロマンを混ぜた
 偽ブランド近代にすがる人々のドラマは感動的でさえある。戦後になると、ハリボテの近代が自業自得で破損する
 のを見るや、日本人は開き直ってフェティシズムへ走った。神器とまでいわれた家庭電化製品、自動車。物が日本
 を代弁してくれるまでになった。物に埋まって我を忘れかかっていた時、ある日本人は気づいた、「そういえば俺
 は人間だった」と。 (122頁)


@こんな風に、「日本」を一つの主語として、その「日本」の物語を語る、という発想(この物語は、
 言葉を換えたら、ちょっとウヨクっぽい、あるいは、日本のネオ・ナショナリストっぽい感じだ)が、
 いかにも先鋭的なものとして許された時代ってあったんだなあ、という印象。


 ともあれ、確認されたこと。島田氏の描くストーリーは、いつも、つねに1960年代生まれの人物の精神史
 という様相を呈している。映画作家を輩出した韓国の386世代(註、PC-9801ではない)と比べると、
 日本の1960年代生まれの人々がたどっている軌跡は、たしかに、歴史的な問題を内包していると言えなくはない。