島田雅彦『自由死刑』(集英社文庫)

自由死刑 (集英社文庫)

自由死刑 (集英社文庫)


@小説に与えられた重要な役割の一つに、「思考実験」があると思うのだが、
 1999年発表のこの作は、その意味で、まさに「贈与というテロ」の実験小説だと言える。


 ひとは自由の刑に処せられている、と云ったのは、たしかサルトルだった(よね?)が、
 ほんとうに自分で自由に死んでいい、となったら、人はいったい何をするのか。


 食欲と性欲と睡眠欲を満たすこと。ただそれだけ?


 おそらく、多くのひとは、自分の名前を歴史に残すこと、を考えるだろう。
 その手っ取り早いやり方は、犯罪。

 だから、記憶されることだけを目的に、社会的な犯罪が起こることもある。

 
 でも、あくまで無名性のままで、匿名の一人の人間として、死ぬ。そんな潔い選択だってある。


 この物語の主人公、喜多善男(善男、というと柄谷行人の本名みたいだけど)は、
 成り行きもあるのだけれど、一人の抑圧された肉体労働者=プロレタリアートを解放する。


 その肉体労働者=プロレタリアートは、じぶんの商品価値を徹底的に利用することで、
 じぶんじしんに何ができるのか、そして、じぶんという存在を徹底的に社会から切りはなすことで、
 ほんとうにじぶんじしんが欲していることは何かを、つかみとっていく(つかみとろうとする)。


 そんな成り行きを、あるいは、じぶんがしでかしたことを、喜多善男は知らない。
 知らないまま、匿名の男として死んでいく。


 人とかかわっているということは、人知れず、なにかしらの迷惑を与え合っているということだ。


 そして、それが、誰かにとって、かけがえのない出会いになっている可能性もある。
 それをしよう、自分から作ってやろうとする奴はさもしいけれども。