村上龍『希望の国のエクソダス』(文春文庫 ISBN:4167190052)

勝手な想像だけれど、今でも村上龍は、この作を読み返して、「自分の読みはガチに当たっていた」とかって思うのだろうか。もしそうだとしたら、救いようがない、と感じてしまう。物語としては面白いし、道具だてもそれっぽい。それこそ経済には素人なので、作中のイベントの中味の半分も理解出来ないが、ありうべきシナリオであろうことはわかるので、スラスラと読めてしまう(なんだか、NAM(懐かしい!)のシナリオを聞きかじって、具体的に展開させちゃいました、という感じだ)。だけど、どうしようもなく何かがずれている。うまく言えないのだけれど、中学生がまるでロボットみたいに描かれているからだろうか(欲望がない、と書かれていたし)。それとも、北海道に実現するとされる理想のコミュニティが、どこかナチの描いたテクノ・ユートピアみたいに見えるからだろうか。

おそらく、その理由の一つは、

おれは由美子が経済にとり憑かれたことが別にいやではなかった。自分のからだに宿った生命の代償として、ある体系的な学問に興味を持つのは理解できないわけではないし、堕胎というリアルな現実に直面してファッションというコマーシャルな世界に疑問を待ったのも何となくわかる気がした。それが正しいかどうか、そんなことはどうでもいいと思う。彼女にとって、それは必要なことだったのだ。それに、経済の学徒になったからといって由美子が変わったわけではない。

なんていう発想を平気で書き込んでしまう発想かもしれない(具象と抽象、可知と不可知、というあからさまな二項対立)。あるいは、

そう言って、ポンちゃんはまたおれたちを見た。後藤は、どうしますかね、というようにおれのほうに顔を向けていた。おれはポンちゃんが言っているニとが間違っている気がしたが、どこがどう間違っているのか正確に指摘できる自信はなかった。だが何か言わなければならなかった。しかもポンちゃんたちに意見を言うときには細心の注意が必要だった。君たちには経験が足りないんだよ、などとその辺の教師みたいなことを言うと、これからポンちゃんや中村君たちはおれたちを避けるようになるだろう。そんなことは大人になってから言うものだ。子どものくせにわかったようなことを言うんじゃない。誰のおかげでここまで大きくなったと思っているんだ。大人の世界には大人にしかわからないことがあるんだ。そういう表現は、わかりやすく翻訳するとすべて「うるさい、黙れ」ということになる。ポンちゃんたちはそういうやりとりにうんざりしている。ポンちゃんたちだけではない。反乱を起こした中学生はみんな同じようなことを思っているはずだ。どうして子どもは発言してはいけないのか。育ててもらうことに子どもが負い目を惑じなくてはいけないのはなぜか。大人にしかわからないことがあるのだったらどうしてそれをわかりやすく説明できないのか。

という発想に見て取れる、日本型コミュニケーションへの紋切り型の批判(欧米はシンプルでオープンなのに、日本はクローズドな腹芸だ、曖昧な笑顔しか見せない、みたいな)へのよりかかり、なのかもしれない。でも、最大の違和感は、「おれ」という一人称の主人公の語りにあるのかも。「おれ」って一人称、なんだか凄く気持ち悪かった。尊大さ、ではないけれど、マッチョな一人称の機能不全ぶりこそが、この作の妙な居心地の悪さを象徴しているような気がする。