「総括」としての『新世紀エヴァンゲリオン』

大塚英志ササキバラ・ゴウ村上隆の近業をみていると、それぞれ立場は違えど、それぞれのやり方で「戦後」のサブカルチャーを「総括」しようとする仕事が目につく。つまり、もういいかげんに、「祭り」は「終わり」にしようとしているわけだ(『ハウルの動く城』の宮崎駿も、同様の問題意識を持っている気がする)。だが、作としてそうした意志をあからさまに示し、見事に描ききって見せたのは、何と云っても『新世紀エヴァンゲリオン』の庵野秀明だったと、素人考えながら、正月に某局で放映されていた、『エヴァ』劇場版2作を見返しながら、思った。そして、その考えは、小谷真理『聖母エヴァンゲリオン』が、対象に対する鋭角的な切り込みにしろ、組み上げられた記述の説得力にしろ、もっともよくあらわしてくれている。いちどオフラインに戻したものだけれど、改めて。


小谷真理『聖母エヴァンゲリオン』(ISBN:483870917X


-日本のサブカルチャーがヒステリックに問うてきた問い(他者とは何か/つまりは自己とは何か)を、最も洗練させたかたちで問うた物語としての『エヴァンゲリオン』。他者とは何か、という問いは、精神分析的にいえば、何を抑圧し、何を排除してきたかという過程のたどりなおしとしてある。である以上、『エヴァ』の物語は、未来=目的=終わりに向かっては組み立てられていない。疑似家族、形骸化した家族、亡霊としての近代家族のアレゴリーとして設定されたNERVの、エヴァの、「過去」=〈いま・ここ〉に至るまでの経緯へと焦点化される。しかも、「セカンド・インパクト」がすべての始まり(ビッグ・バン)ではない。それはひとつの始まりではあったが、その出来事に対する、さまざまな人間のさまざまなかかわり、その時間と空間こそが〈いま・ここ〉を作り上げている。物語は、そのNERVと、NERVにかかわる人々の過去をフラッシュ・バックさせていくことで、なぜそのような主体が、家族が、織り上げられなければならなかったのか・他に可能性はなかったのか・どんな可能性=他なるものが排除され抑圧されていったのか、という問いに転化している。

「五〇年代冷戦以後、六〇年代の世界革命闘争以後の多くのSF作品において、しばしば繰り返し前提とされてきた「ザ・デイ・アフター」的風景が、世直しのヴィジョンを隠喩化していたことを考えると、むしろここでは「セカンドインパクト」という世界変貌の仮面の下に、何らかの形での、非常に大きな技術的変革が隠喩化されているのだと思う。そして、その変革によって実際的家族像は変貌せざるを得なかったのであり、そうした家族欠損(特に母親消滅)状況にもかかわらず、なぜか家族的イデオロギーが、物語の底流で大きな強迫観念として継続しているのではないのだろうか。いわば、生みの親がそのまま育ての親になるような今の現実世界の制度的形骸が亡霊のように変貌後の主人公たちを拘束する強迫観念として関わってくるのだ。
 その意味で、この世界では、実に慎重に「家父長制的家族」を演じる家族ゲームが描かれる。第拾弐話では、自分たちを「ちゃんと戦いに勝ったらステーキをごちそうしてあげるわね」と子ども扱いするミサトに、シンジとアスカが「子供の役割」をわざと演ずるそぶりを示すこと。ここでは子供たちばかりか、当のセリフを吐くミサトもまた心の底ではいたいけな子供を激戦へ追いやる「憂国の母」的立場にうんざりしており、単に「養母」の役割をパロディ化するばかりではなく、逆にこうした家族ゲームをお互いに演じることの不毛さを了解することによって、逆説的に家族的な絆が保たれていることが明らかになる。」28

  1. 第1部(1〜12話) ;使徒=「敵」、つまり「外部の他者」 「わけのわからない奴が襲ってくる」(アスカ)
  2. 第2部(13〜24話) ;使徒=外部の他者から、内部の他者へ。勧善懲悪構造からの逸脱。

「西洋二項対立思考においては、しばしば他者とは、男性/女性という対立項と連動して、かぎりなく「女性性」に重なり合うように捉えられている。家父長制度の根幹である西洋的主体、つまり「私」とは中性ではない。「僕」つまり男性を中心としている。「僕」が「自己/男」として成立するには「他者/女」を認識し、これを抑圧するという性差概念を受け入れなくてはならない。けれども、「他者とは何か」という問いは、しだいに「自己/男」内部に内包された「他者/女」へと踏み込んでいかざるをえないのではないか。男性性と女性性とは生まれた時からの生物学的違いのみならず、社会的に形成されているものだとすれば、なおのこと。男性性と女性性の境界線は、突き詰めれば突き詰めるほど曖昧になっていく。」37

→ 第2部における使徒の浸透度。 エヴァを指揮・管理するNERVのコンピュータ(MAGI)へのハッキング、洗脳。 エヴァそのものを呑み込む虚数空間。エヴァ三号機への(体内への)寄生。エヴァに喰われる使徒=操縦者を内部に取り込んでしまうエヴァエヴァとの融合。クローン培養された、レイと同じ存在。

「外部の他者から内部の他者へ。使徒の変貌は、物語自体の変貌と平行的である。性的隠喩に満ち溢れた他者の攻撃が、ネルフという家族システムを顕在化させ、内面化する他者の攻撃は、精神分析的に家族という構造内部を暴いていく。いわば、第一部は、ひたすら家族像の表層を描写し、第二部以降ではその背後にどのような精神分析的因果関係が画されているのかを徐々に明かす。それは歴史的過去であり、隠された人間関係性への探求であり、西洋二項対立的世界観のなかで、文明内部に抑圧されているさまざまなものを探究することにほかならない。どうやって抑圧され、どのように文明内部に塗り込められているのか。物語は、こうして表層から水面下に視点を移しながら、「他者とは何か」という問題をより複合的に浮かび上がらせていくのである」40

-サイボーグ・フェミニズムのテクストとしての『エヴァ』。「男の子」の幻想を強力に引っ張っていく物語をあえてはじめに展開して見せたあとで(第一部=ヤシマ作戦、充填に時間がかかる「電気」の「銃」の発射=射精のメタファー)強制的異性愛体制にとっての「おぞましいもの」が、次々と描き込まれる。第2部では、物語世界に徐々に表出してくる他者/女性性を、人物たちは、必死でミソジニックに防衛する(第13使徒イロウル」=NERV内部の「腐蝕」からはじまり、レイのダミー・プラグの左手を汚染する。「作られたもの」「内部に隠蔽されていたもの」「疾病」のイメージ から出発する一連のエピソード。MAGIシステムがハッキングされ、血の色=赤で画面がどんどん塗り潰されていく)。そして、その究極の姿といえるのが、「渚カヲル」というキャラクターの体現する「同性愛的なもの」と、碇シンジにおいて顕在化した「同性愛的なもの」の位相的差異。「カヲル」は、「やおい」文化のファントムを体現したような存在である。つまり、強制的異性愛の体制下におかれた女性が、架空の物語の中で性差の関係性を問い直す寓話の登場人物である。だから、男性同士の関係性への探究に踏み出しつつあったシンジとは、明らかに違う次元に属する(シンジがいくらカヲルを欲望しても、その「愛」は決して満たされることはない)。

「他者を追求すること――西欧の男性中心主義的二項対立的概念では、他者はしばしば女性性を包含する。人間/男性/文明のなかの他者とは、たとえば母であり妻であり、娘であり、女である。ところが、女性性とは何かを追求すればするほど、女性/他者とは、男性/自己内部の幻想にほかならないのではないか? とすると、他者/女性とは男性中心的文明における「主体性/自己」が創り上げた幻なのだろうか? 皮肉にも、そのような問いを発するくらい人間的/男性的であればあるほど、他者/女性との境界ははっきりしてくるし、男性的であればあるほど、自己内部に明確な女性性を内包しているアイロニーが浮上する。
 強力に男性的でありたいと願えば願うほど、自らの内なる女性性に直面せざるをえないのではないか。
 つまり、物語のなかでレイプという性的隠喩の乱舞するシーンが繰り返されるなど、男性優位的世界観が強く描かれれば描かれるほど、その世界観で抑圧された女性性が明確に浮き彫りになる。そして、男性中心的世界観そのものが女装化されなければならないほど、女性的な部分が幻視されてくる。男性中心主義ほどいっけん女性排除・女性嫌悪をむきだしにするシステムもないはずだが、それゆえ男性中心主義ほど「女性的な」世界観を隠し持つ場合が少なくない。そして、自らがそのような女性性を露呈することほど、現実感喪失感覚と結び付くことはない。したがって、すぐれた恐怖の演出家ほど、作中では激しく被抑圧者を陵辱し、逆に被抑圧者化されてしまう傑作を描き切る。」58-59

「(やおいという)文化的現象を具現化しているとも言えるカヲルは、当然のことながら人間の姿をした使徒だった。最後の使徒=他者、すなわち「女性性」の影のもとに生まれてきた幻獣のような存在だ。彼は異性愛社会における権力的矛盾を問うために、制度下に生きる女性自身が作りだした幻想の生き物なのだ。〔略〕カヲルとは、言ってみればホモソーシャルという男性中心社会の男の絆という権力的関係性を「読みかえる」ために送り込まれた破壊工作員なのだ。」92

→ セントラル・ドグマ(近代社会=家父長制の「中心的教義」)の中で対決するシンジとカヲル。他者としての使徒が最後に暴き出したのは、アダム(男性性)と信じられていたものが、じつはリリス(女性性)だった、ということ。

「アダムがリリスに転ずること/アスカの乗る弐号機を、少女のかわりに少年が操ること――「女性」的想像力から生み出されたカヲルとは、いわば、男装した女性なのだ。ならば、変態したシンジこそ(ホモソーシャルであれ、ホモセクシュアルであれ)女装化された男性だったのだ。
 このすさまじい暴露は、ネルフという家父長制的家族の性差構造の根幹が、男性中心主義から男装中心主義へと書き替えられることにほかならない。男装した家父長制。それは、ネルフの中心、碇ゲンドウの性差役割の変貌をも意味するだろう。」94

「大変貌によって実態こそ破綻しているのになぜか延命している家父長制。それは実態に即していないからこそ、強力な宗教的力を発揮していたことが暴かれた。
 究極的に高められた家父長制的構造は、怪物的なまでに高められた女性性を噴出させてしまう。怪物的なまでに究極的な女性性は、変貌のもたらした技術的進歩と絡み合うようにして、近代以降電気的物語学によってささえられてきた水面下のイデオロギーを情け容赦なく暴き出す。このように技術によって噴出する女性的なものを、テクノガイネーシスと呼ぶ。テクノロジーの水面下に、何と濃密な権力的構造が隠されていたことか――。」95-96

→ 性差という二項対立は、さまざまな二項対立の絡み合うクイア的なネットワークへと炸裂する。
 
-新しい、未知のテクノロジーと出会ったとき、ひとは、その不気味さ・理解不可能性を、自分たちにとって既知の何ものかにアレゴリカルに対応させたり、既存の記号の解釈を拡大させるかたちで、なんとか理解可能な文脈に取り込もうとする。それは、現実を認識するうえでは欠かせないプロセスなのだといえばいえる。しかし、それは同時に、事態の更新・変革それじたいを理解できず(しようとせず)、現実的な基盤・下支えがすっかり空洞化してしまっているにもかかわらず、相も変わらず過去の・時代遅れの制度が維持され続けてしまう、という別の落とし穴へと陥っている、ということでもある。小谷真理に読みほどかれた『エヴァンゲリオン』の物語とは、もはや労働力としては性差に左右されない時代に突入した、ポスト近代・ポスト産業社会において、いまなお延命しつづける、形骸化した・腐乱した近代家族のファミリー・ロマンスである。とりわけ、不在であるがゆえにかえって強く登場人物たちに意識されつづける(そして、「人造人間」のコアとの直接的な連関が示唆されている)「母」をめぐる/にまつわるファンタジーである。

  • そこで小谷氏が注目するのが、その特異な出自と感情表現の欠如によって、他の登場人物たちの〈鏡〉としての役割を担わされてしまっている、綾波レイという存在である。レイ(二人目)は、当初、碇ゲンドウとのみ親しく会話し、ゲンドウの命令に従順にしたがい、ゲンドウには微笑みを見せる(シンジにとっての、理想の親子関係)。また、レイは、(まさしくそうなのだが)ゲンドウの人形としてしかない自分を受け入れている(それは、アスカが何としてでも否定したい現実である)。ただ、レイ自身が、「わたし、誰?」という問いを発した瞬間、事態は非常に皮肉で、複雑な問いを立ち上げる。なぜなら、レイは複製されたクローンであり、同時に、にもかかわらず、記憶の連続と不連続とが刻み込まれているからだ。そして、物語に登場するレイ(3人目)は、物語の中で死んだレイ(2人目)が持っていた、ゲンドウのメガネを持ちながら、涙を流す。まるで、その記憶を持ちえない自分自身を嘆き/その記憶を持っていた他者=二人目のレイを哀悼するかのように。レイとレイとの間に生じた強い絆。このとき、レイは碇ゲンドウの個人的な欲望を具現化した工業的生産物(であり、強制的異性愛体制下の男性にとっての「夢」=ファントム)であることから逸脱し、人間でもなく、人形でもない、ハイブリッドな主体としての異質性(彼女は、セカンドインパクト後のテクノロジーによって「生産」されたのだから、使徒と人間のハイブリッドでもある)を強力に主張しはじめるのだ。彼女はひとりではない。近代的主体性から、ポスト近代的な複数化された主体へ。
  • また、小谷氏は、物語にとっては脇筋に属する、赤木リツコ赤木ナオコという親子の関係にも同様の関心を差し向ける。結果としてリツコはゲンドウにレイプされ、彼の情婦にさせられている。物語の最後のところでは、レイのクローンを破壊する、という母ナオコと同様の行動にも出ている。だが、彼女の欲望はそれほど単純なものではない。「マザー・コンプレックスでマヤやミサトと友情を結び祖母を慕い猫を愛玩するリツコの姿」は、単純な異性愛ではなくて(たしかに、リツコには、男性を必要=欲望とするそぶりがまったく見えない)、むしろ、「母と一体化したいという同性愛的な要素が皮肉にも彼女を異性愛者に見せているだけではないか」。たとえば、イロウルに汚染されたMAGIシステムをリツコは逆ハッキングして護ったのだが、彼女が入りこんだのは、「女」を担当する「カスパー」の部分だった。しかも、プログラムを書き換えることでの「逆ハッキング」を行為したにもかかわらず、「ママは女であることを守ったのね」と彼女は口にする。彼女自身が、「女」を書き換えてみせた直後に。これは、異性愛的な「女」だったナオコの女性性の書き換えだったのではないか?(と小谷氏は示唆している)