メディア研究は彼女の批評を超えることができるのか


という問題設定じたいが、あまりにも「とほほ」な陳腐なものなのだけど。
やっぱり、読み返してみると、テレビ研究、オーディエンス研究にとってのひとつの道標、だとは思う。やっぱり凄いし。


「中山秀征的なもの」がテレビを覆い尽くしていく90年代、という見取り図をかんがえたとき、テレビ局の番組制作のメカニズム、予算、テレビ局とスポンサーとの関係、そのようなものは、どう見えてくるのだろう。そんな興味もある。

それぞれの時代で、求められるテレビ番組は変化してきた。ある時は報道番組だったり、スポーツ中継全盛の時代もあったろうし、例えば私の小中学生時代(1970年代)はテレビの中心は歌番組だった(と私は思っている)。で、90年代はバラエティだと思うのである。バラエティ番組が多く作られ中心的な扱いを受けているというほかに、本来バラエティ番組ではないはずのジャンルの番組がバラエティ化していったというのも、バラエティ番組全盛の印象を強める原因のひとつになっている。スポーツ中継(特にオリンピックや各ワールドカッブといった大イベント)はお涙頂戴の感涙バラエティだし、ニュースはいつのまにかお買い得情報番組で、歌番組はそのうちトーク番組になってしまうかもしれない。バラエティが全てを飲み込んで、中和と言えば多少聞こえはいいが、ぬるくてゆるい「バラエティ空間」に変えてしまっている状態だ。そしてそれが90年代のテレビの「空気」であるということである。 この90年代のバラエティ的空気を、私は「中山秀征」を媒介に振り返ってみたい。中山秀征は90年代バラエティの申し子であった。彼の歩いてきた90年代はそのままバラエティの90年代でもある。 〔略〕

 その記念碑的番組として、主演ドラマ『静かなるドン』と『24時間テレビ』の司会を挙げておこう。奇しくもこの2番組は両方とも1994年である。94年から95年にかけてを、中山秀征の絶頂期であったと言い切っていいと思う。絶頂期の彼はバラエティの天才であった。当然である。なぜならこの時期の中山秀征は、バラエティと過不足なく完全に「一致」していたのだ。「俺がバラエティだ!」状態。ぬるさ加減もゆるさ加減ももちろんつまらなさ加減も、全てぴったり。ヒデちゃんよりおもしろくても、ヒデちゃんよりつまらなくても、ヒデちゃん以下なのだ。ヒデちゃんがちょうど正解なのだから。だからこの絶頂期、ヒデちゃんは「中山秀征的能力」においてダントツの天才だった。そしてこの「中山的能力」はすなわち「バラエティ能力」と完全に合致していたということだ。

ナンシー関『何だかんだと』角川文庫 ISBN:4041986117)