奥泉光『ノヴァーリスの引用』 ISBN:4087475816

笠井潔といい、どうして「学生運動」は言葉を連ねさせるのだろうか。
大人になることを忌避する文化は、この世代の表現者のあちこちに顔を出している。

当時私たちの大学にも姿がないわけではなかった、暴力的手段を厭わず革命を志す結社党派との関わりをもたなかった石塚が、孤独な隠者の路を通って観念論に行き着いたのも、必然の道行だったといえるだろう。観念論で行くと決まれば今度は内なる黄金を掴む方法が問題になるわけだが、実はこの観念論には困ったことに最初から出口がない。人類といい自己疎外といい、いずれも他者との関係に置かれてはじめて意味を持つ概念なので、いくら自分のなかを捜したところで砂金一粒すら出てきようがない。貨幣をどれほど細かく砕いて分析しても価値は見つからないのと同じ理屈で、まさにタマネギの皮の比喩そのものに、自己純化の果てには何も残らない。だからこれを試みる者は大抵神経症になってしまう。疎外に満ちたこの世界が悪であるならば、世界のなかにある自分も悪にまみれずには生きていけない。自己疎外を克服しようとすればするほど、自分をきれいにしようとすればするほど、体細胞の隅々にまで染み渡った悪の毒に脅かされる。かくして不潔感や体臭に悩む強迫神経症患者と同じ悪循環に陥る。しかもこの毒は社会に蔓延した毒であって、個人がいくら努力してもどうにもならない。となればやはり世界の消毒係を自任する革命党派に属して頑張るべきか。しかし自己手段化は類的本質の回復という目的そのものへの背信行為ではないか。このジレンマに突き当たって誠実な思考者は立ち辣む。(74P)

「ただ僕はね、今回石塚の卒論を比較的丁寧に読んでみて、彼が無意味に事故で死んだと考えたくないんだな。悩みを抱えて自殺したというのも面白くない。どういうか、彼は自分の幻想に殉じて死んだんだと、そう考えたいんだね。夢を見ながら彼は死んだのだ、是非ともそう捉えたい。実際に彼の魂がどこかに上昇していったなんてことは、あくまで唯物論に立脚せんとする当方としては、それこそ幻想小説のなかにのみ置かれるべき虚構であるにしてもね」
 箱のなかに残っていた最後の煙草を進藤は取り出すと、ロにくわえ、ライターを掌で弄んで、火はつけぬまま言葉を足した。
 「とはいえね、何らかの虚構なしには人間は死を迎えることはできない。虚構の力を借りなければ人間は死にづらい、つまり生きていきにくい。最近ではそう考えるようになってもいるんだけれどね
 進藤が煙草に火をつけると、電球の灯のなかを環になった煙が漂い、天井に向かって流れた。(95p)