島田雅彦『子どもを救え!』(集英社文庫 ISBN:4087477282)

不意に訪れてしまった休みを有効に使いたいとは思うものの、そうはいっても、何をしていいのかわからず(本当はすべきことはいっぱいあるのだった)、いっぽうでは、やはりどこか周囲の正月気分に影響されていて、思いっきり集中力がなく、怠惰な一日をすごしてしまった2006年1月1日の、パートナーが寝込んでいる郊外マンション(駅から徒歩三分・1LDK・70㎡)在住の30代男性のバイオリズムにガチっとハマってしまい、思わず2時間で読み切ってしまったのだった。元気は出た。可能な世界をいろいろと想定することで、退屈は有意義な空無の時間に変わる。だが、それは、人の不幸を喜び、人の幸運をねたましく思う感性と違わない。

 鈴木梅子は勝ったのか、負けたのか?浮浪者になっているかも知れない得居大はやはり負けたのか?
 かつて、郊外のありふれた町で同じ制服を着、同じ商店街で買物をし、同じ橋を渡り、同じ駄菓子屋にたむろした連中は今何処で何をしているのか?
 これまでそんなことを考えたためしがなかった。自分が生まれてこの方、郊外に幽閉されていることの理不尽ばかり考えた。郊外でなければ、何処へでも逃げ出そうと貪欲に旅を続けてきた。でも、旅が終るとまた郊外に舞い戻ってきてしまう。千鳥はユリシーズではないのだから、郷愁なんて抱くつもりはなかった。そもそも郷愁は失われた世界への哀惜の念である。もし、地上から自分が生まれ育った郊外が消滅してしまえば、郷愁も味わうことができただろう。しかし、郊外は失われるどころか増殖しているのだった。そのうち、旅にも徒労感を覚えるようになった。なぜなら、旅先もまた都市や辺境のオーラを失い、何処かで見たような場所でしかないことを発見してしまったからだ。最悪の場合、自分が生まれ育った郊外とそっくりの街に辿り着いたりした。
 もう自分は郊外から逃げられない。
 千鳥が諦めとともにそう断念した頃、哲人が生まれた。千鳥は郊外に定住する覚悟を決めた。その頃から過去を懐しむ気になった。
 〔略〕
 千鳥と同様に、英雄は無為に身を任せるために郊外の家に戻ってくる必要があったのではないか。妻と二人の子どもがいるあの居間は、英雄が何もしないために必要な場所だったのかも知れない。事実、英雄はいつも伸び切ったバネのようにソファに横だわっていた。疲れを知らぬ英雄でも、月に一、ニ回はそんな時がある。可南子が最後の数日間に見ていたのは、摩耗した英雄だった。日記には英雄の言葉が生々しく記録されていた。
 ああ、何もかも面倒くせえ。いっそみんな消えちまえばいい。
 千鳥も小学校六年生以来、たびたびそんな気分になっていた。逆に郊外に暮していて、そんな気分になったことがない者の方が狂っている。その気になれば、誰だってニヒリストになれる世の中に暮している。ニヒリストにならず、爽やかサラリーマンや生きがいだらけの主婦のまま固まっている人がいたら、その人は危険だ。狂うか、宗教に走るか、自殺に走るか、ろくなことはないだろう。