オーディエンスとしての「女性」という本質化。

学校という社会を卒業=離脱し、あるいは、企業という社会から離脱し、具体的な関係性の上では「社会」と距離ができてしまった女性たちが、メディアの受け手としてどのような(あやうい)再帰的自認を確保していくのか、という問いは重要。情報の量、不断に自己言及されるコミュニケーションの濃密さ。そして、消費する身体としての組織化。その問いに漸近した仕事を、いくつかひもといてみる。

  • 木村涼子「婦人雑誌の情報空間と女性大衆読者層の成立――近代日本における主婦役割の形成との関連で」(『思想』1992.2)

「主婦之友」の読者投稿欄の分析から、この雑誌が提供した「女性」のアイデンティティについて、さまざまに折りたたまれた「あるべき女性」をめぐるイメージの葛藤が、ヘゲモニー的な「同意」として、どのレベルで調停=構築されているか、考える。概説としてよくまとまっているが、やや分析の対象が、大正期よりになっている。「主婦之友」は、いっぽうでたいへん俗悪なメディアとしてあったわけで、「女学校」における評価(良質なメディアとしての)はいささか時期区分に問題があろう。

  • 石田あゆう「広告メディアとしての戦時期婦人雑誌――『主婦之友』の流行案内を中心に」(『叢書 現代のメディアとジャーナリズム6』ISBN:4623039366

若桑みどり『戦争がつくる女性像』への批判から出発。戦時下に描かれた図像が、「軍国の母」ばかりだったら、そもそも消費を煽動するメディアとしての「婦人雑誌」など存続できないではないか、という素朴な問いかけからはじまる。したたかに、さまざまなレベルで「合理性」「公共性」という記号を身に纏いながら、「よりよい消費」が奨励され、「工夫」という言葉において、ファッションとしてのスタイルを追求することが肯定される場として、15年戦争期の『主婦之友』の誌面を読み直す。たしかに、戦前において、もっとも経済規模が拡大し、家計が豊かなものとなっていたのは1937-38年ごろだった。『細雪』(谷崎潤一郎)を参照してもいいだろう。

  • 和田敦彦「「婦人画報」の夢見る規則」(『読むということ テクストと読書の理論から』ISBN:4894761521

こちらは大正期の『婦人画報』が分析の対象。硬質な思考が目立ち、「読む」身体の問題が相対的に軽視されているように感じられる本書のなかでは、出色の議論が展開されていると思う一章。なぜ「婦人雑誌」の論説や広告は、どう考えても筋の通らない説教や、なんだかよくわけのわからない通俗科学的な議論でもよしとされてしまっているのか? それは、論説と広告とが相互浸透するかたちで、「夢を見たい」という読者の欲望を組織し、いわば、そこに依存症的に参与させるような誌面構成を作り上げているからだ、という。この議論は重要。なぜなら、そもそも雑誌が「読まれる」ものだ、ということ、それも、近代的な「読者」のように情報を精読する身体となる、という前提そのものを問い直すから。雑誌にしても新聞にしても広告にしても、そんなにひとは真剣に読まないのである。