清水美知子『〈女中〉イメージの家庭文化史』(世界思想社 ISBN:4790710610)

かつて中流家庭の主婦は、家計の予算を立て管理し、女中の仕事ぶりを指揮・監督して家内を取り仕切るホームメーカー(家庭管理者)としてなくてはならない存在であった。それが、住み込み女中がいなくなったことで主婦は、「女あるじ」の座を手放し、無給のハウスキーパー(家事労働者)と位置づけられていく。主婦労働の有用性をめぐっていわゆる「第二次主婦論争」が繰り広げられたのは一九六〇年代前半。奇しくも、住み込み女中が消えていく時期と一致する。これらが同時期に起こったのはまったくの偶然ではない。この時期に主婦の地位は大きく変化したのである。
 住み込み女中が消えたことは、それぞれの家庭から「他人」がいなくなることでもあった。かつては、女中のみならず、親戚縁者、同郷の知人など、非血縁の人がいる家庭は少なくなかった。こうした人びととの関わりを通して、子どもは他者への気配りや人間関係の距離のとり方、立場や世代の異なる人とのコミュニケーションの方法などを学んだものであった。
 こうした他人がいなくなり、こんにちでは多くの家庭が血縁と姻縁からなる核家族になった。夫婦と子どもから成る家庭は、気兼ねする人もいないから、気楽で居心地がよい。反面、人目を気にしなくてもよいため、けじめのない生活に流れやすくなる。規律を守れ、他人に対して思いやりを持てといっても、他者の目がない核家族ではなかなかにむずかしい。そして、家庭内でできないことは外
(世間)でもできないのである。親離れできない子、子離れできない親。モラルの低下や自己中心的な傾向。こんにち顕在化している家族問題の原因のひとつは、家庭のなかに「他人」がいなくなったことに求められよう。

だれもがその存在の重要性について気が付いていながら、実際の研究が乏しかった分野にかんする労作。近代文学を読んでいると、ごく当たり前のように登場していて、だけれども、その社会的な実態について何も知らない「女中」について、その言説にあらわれたイメージの変遷を、資料を博捜してたどっていく。

「女中」はつねに疑似家族の一員であり、同時に、家庭生活の修業にきた「生徒」でもあった。修業であるからという理由で過重な労働が強いられたし、「家族」だから、という理由で、住み込みが期待され、24時間、不断の労務提供が暗黙のうちに期待された。
だが、これは「主婦」の問題ではない。近代日本において、いかに女性に過大な家事労働が強いられていたか、ということであり、「女中」なしには、家庭生活が立ちいかなかったのである。

そして、興味深い筆者の指摘。家の中に「他者」がいない、という状況は、きわめて新しい事態である、ということ。すでに家庭の中が社会だった。そして、高度成長期以後、家事がオートメーション化し、核家族化が進む中で、家事補助者としての「お手伝いさん」は家の中から消えていく。それは、「主婦」が、「主」たる「婦人」としての位置から、たんなる家事労働者へとその位置を変動させていくことでもあった。