政治的プレイヤーとしてのヒロヒト

 ところが天皇の側はまったく逆に、朝鮮戦争での米軍の苦境は、ソ連の直接侵略か国内共産主義者の間接侵略による「革命」と「戦争裁判」と天皇制打倒につながるものとみたのである。とすれば、戦争放棄の新憲法のもとにあって、この未曾有の危機を救えるものは米軍以外にないという結論にいたるのは、きわめて自然のなりゆきであった。ここでは、日本の側が米側に対して「弱い立場」に立つ。日本こそが米軍駐留を「希望」「要請」し、基地の「自発的なオフア」に徹しなければならないのである。そしてこれこそが、安保条約の「根本の趣旨」なのである。なかでも「内乱条項」は、その核心に位置するものであった。皮肉な表現を使うならば、ここにこそ、「国体護持」のための安保体制があたらしい「国体」となる契機があったといえるであろう。(豊下楢彦『安保条約の成立――吉田外交と天皇外交――』(岩波新書 ISBN:4004304784 ;210)


@「日米安全保障条約」は、改訂を経た現在に至ってもなお、きわめて「いびつ」な内容をもっている。条約締結の際の実務交渉にあたっていた西村熊雄ですら、実質的には「駐軍協定」でしかない、というくらい、植民地的・従属的な内容である。


@ただし、現在の内容は、当初からの外務省の構想とは違っていた。
条約締結に向けた交渉(講和条約の交渉)の中では、国連憲章51条の枠内で、あくまで「国連」との関係にリンクさせながら、日米が「相互平等」「共同防衛」の関係にある、という条約案が準備されていたのである。

@あくまで冷徹なパワー・ポリティクスの観点に立つとするならば、朝鮮戦争の帰趨が未だ解決せず、中国革命における共産党の勝利が確定しつつあった当時、日本における「基地」は、アメリカ相手に、非常に重要な外交カードたりえた。そのことは、アメリカの側もよく理解していた。
「空想」「夢」と嘲笑される、「非武装中立」「全面講和」という選択肢も、じつは、外務省の中で真剣に討議されていた。そして、米=国務省も、日本側がそうした強気の交渉姿勢で臨んでくることを半ば予想してもいたのだった。
だが、そんな中で、首相兼外相・吉田茂が見せる奇妙なブレと、不可解な譲歩。早期の「独立」を急ぐ余り、マッカーサーの意向に反して、池田勇人に基地提供を「オファ」させ、マッカーサーの激怒を知るや、一点、ダレスとの交渉が始まる前に、再軍備を否定する(そのころマッカーサー自身は「方向転換」していくのだが)。


@しかし、吉田の交渉姿勢の不可解さは、マッカーサーの意図を忖度し、読み違えたから、という話だけではとどまらない。豊下氏が提起するのは、「朝鮮有事」を「天皇制の危機」と読み取った、ヒロヒト(とその側近)による外交への介入である。ヒロヒトは、マッカーサーと吉田という交渉のルートをバイパスし、ジャパン・ロビーを活用しつつ、ダレスとの直截なチャネルを作っていた。そこで、一定の意思表示を行い、吉田にも、それを「下命」したのではないか――それが、資料を読み込んだ上で提示される、氏の仮説である。

@もちろん、これはあくまで仮説にすぎない(というか、そのような資料が宮内庁から公開されるとは思えない)。が、確度の高い説なのではないか。その感を深くさせるのは、「沖縄」を租借地として米軍に提供したい、という主旨の文を述べていたのが他ならぬヒロヒトであり、そして、天皇制温存・存置=「国体」の保持を結果として実現したのは、宮中グループと、国務省親日派の、「国際共産主義の脅威」に対する共通認識であったからだ。

  • 「冷戦」の時代、日本外交は、さまざまなカードを切りうる立場にいた(もちろん、それは、朝鮮や台湾に「争乱」を押しつけ、過去の清算をしなかった結果のことだった)。だが、そのときに、小国として生き抜く術を「考え」たこと、それをすべて忘却してしまったのだった。その「忘却」に、かりに、ヒロヒトがかかわっていたとするならば……。彼の政治的な責任は、戦前のことのみではない。