「日本社会論」とは何だったのか

必要あって、中根千枝『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』(講談社現代新書 ISBN:4061155059)を読む。

理論装置はシンプルだ。人間が集まって、組織を作り上げる。その原理を「場」「資格」という二つに還元したうえで、いずれを・どの程度重視するか、という発想から、社会の「構造」の記述を試みていく。
ちなみに、中根が記述する「日本社会」は、「資格」(=ヨコ)のつながりがなく、「場」を維持するための組織原理としての、「タテ」を発達させてきた、というものだ。

 著者がとくに力説したかったのは、こうした一定の「条件」というものを考慮して、日本人、日本社会の問題を考察することであった。筆者のいうこの「条件」とは、とくに社会学的条件である。社会学的条件とは、その社会の長い歴史をとおして、政治的、経済的、そしてもろもろの文化的諸要素の発展、統合によってつくられてきたものである。こうして形成された既存の社会組織(フォーマルおよびインフォーマル・ストラクチュアすべてを含む)自体も今日の日本人の行動をかたちづくる重要な条件なのである。(「あとがき」)


だが、気になることは、中根の指摘はほんとうに「構造」であるのか、ということである。


「うち」と「そと」を区別し、先輩と後輩の別を重んじる。リーダーは相対的に下の者の意見を取り入れなければならず、下の者も、リーダーに近づき利用することで組織の中での優位性を発揮していく――。こうした論理が、戦後日本の企業社会によく見られた構図であることは間違いない。だが、それは、ほんとうに自生的な「構造」であると言えるのか。


坂口安吾流にいえば、なぜ「場」が重んじられたかというと、たんに貧乏だったからではないのか(乏しいパイを合理的に配分するためには、不断の闘争状態の継続ほど無意味なことはない)。また、「ヨコ」のつながり=関係性の稀薄さは、明治維新政権によって大々的に展開された、中間的な集団の骨抜き政策(南方熊楠が批判した、神社政策などはその典型だ)によって、つくられたものではないのだろうか。


中根の社会構造論は、彼女自身が距離をとりたいと表明する、素朴な「日本人論」や本質主義的な日本社会論にかぎりなく近づいていく。その議論の中に、変化や変革、あるいは、歴史をふまえた議論が根本的に欠落しているからである。

なぜ花田清輝が、戦後になって「中世」の問題をかんがえようとしたのか。「日本」の「ルネッサンス」という発想を、改めて持ち出そうとしたのか。中根の議論や、その議論を肯定的に受け入れた当時の社会を考えれば、確かによくわかる気がする。