金井美恵子『ピクニック、その他の短篇』(講談社文芸文庫)
- 作者: 金井美恵子,堀江敏幸
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 1998/12/10
- メディア: 文庫
- 購入: 1人 クリック: 7回
- この商品を含むブログ (24件) を見る
@世の中には「才能」というものが厳然としてある、ということを、つくづく思い知らされる短篇集。
金井氏の操ることばの冴えが、短篇であるだけに、より一層際立つ。
@一番のお気に入りに挙げたい作がいっぱいあって困るのだけれど、
いつしか行われている人称の交替が、泉鏡花のように、言葉のあやなす記憶の迷宮に読者を迷い込ませていく
「月」や、
うってかわって、中年の文芸批評家の、なんとも「ブンガク」から遠く離れた日常がごく散文的に描かれていて、
でもそれがかえって小説というジャンルにふさわしいあり方なのではないか、という思いを引き起こしてくれる
(つまり、ある意味で『ボヴァリー夫人』のような)
「あかるい部屋の中で」
が、とくにいいかな。でも、読み返すとまた印象は違ってくると思う。それだけの短篇集である。
福井晴敏『亡国のイージス 上下』(講談社文庫)
@書かねばならない原稿や、やらねばならぬ授業準備などがあるのだけれど、
その現実から逃避して、読破。狭い護衛艦が主な舞台だが、
それぞれの場面の細部を描く筆力があるので、どんどんページをめくる手がすすむ。
この作は、面白いかと問われれば、面白い。
だけれど、読み終わったのち、何かひっかかるところがあるのも事実。
エンターテイメントだから、というわけではない。この作で描かれている事件に
かかわっていく人間たちのMotivationが、まるでわからない。
北朝鮮のテロリストが、すでにひそかに対米宥和協調に傾きつつある
自国の政策に嫌気がさして、という設定は、『シュリ』と同じ。
でも、この物語を作っていく上で必須であるはずの、肝心の海上自衛官たちの
「蹶起」にいたる経緯、動機付け、思想信条などが、
考えれば考えるほど、どうにも薄っぺらいのである。
にもかかわらず読ませてしまう筆力はただ者ではない、とは言えるけれど、
フィクションとしての完成度からすれば、やはり問題あり、である。
それにしても、2005年は海上自衛隊は映画の中で大活躍でしたね。
防衛庁にとっても、いい宣伝になったでしょう。戦争中の現在。
藤田嗣治展 Leonard FOUJITA
- 作者: 福井晴敏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/07/16
- メディア: 文庫
- 購入: 5人 クリック: 68回
- この商品を含むブログ (335件) を見る
- 作者: 福井晴敏
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2002/07/16
- メディア: 文庫
- 購入: 4人 クリック: 22回
- この商品を含むブログ (258件) を見る
をめくるページを止めることができず、すっかり遅くなってしまって、
閉館間際になってしまったけれど、国立近代美術館のフジタ展に出かける。
やっぱり現物のライヴ感は違いますね。
とりあえず目的は戦争画のコーナー。塗りたくられた絵の具の質感は、
買ってきたカタログでは、当然ながら、見えませんでした。
そして、どうみても戦意高揚とは見えない、あの絵たち。
日本兵が米兵を殺そうとしている表情は、ほとんど仏画の地獄絵図のよう。
サイパンでの自決を描く絵の中で、くり広げられる惨禍の中、一人無表情に立ちつくす日本兵。
フジタの戦争画では、誰が敵で誰が味方なのかもわからず、
どこが顔でどこが地面なのかわからず、
何が死体でどれが意志をもった存在なのかがわからない。
あの陰惨な画面の印象を、当時の軍部はどう受け取ったのか。
現物をかれらは、ほんとうに目にしたのだろうか。
かれは、いろんな実験もやって、いろんな組合わせや取り合わせの妙も
工夫することができて、しかも、器用に歴史的な様式を学び取っている。
でも、そんなふうに、いろんな画風(イラスト風、ポップなものまで)が
こなせてしまうかれだからこそ、最後は「宗教」画に行き着いてしまう。
技術に秀でた者ほど、技術を支える「超越的なもの」を欲する、
というのは、通俗的に過ぎる見方なのでしょうか。
熊倉正弥『言論統制下の記者』(朝日文庫)
- 作者: 熊倉正弥
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社
- 発売日: 1988/04
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 1回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
@古書で購入した貴重な証言の一冊。筆者は元政治部記者。敗戦直後の、あまり知られていない法律の審議、参議院の様子、議場のありようなど、興味深い記述が多かった。
@とくに、「祝祭日」の「祭日」が、つまりは、天皇家=神道の「祭日」っていうこと、をぼくはすっかり忘れていたし、参議院がなぜ「良識の府」なのかというと、つまりは、一院制による体制転覆を恐れた側にとっての「良識」「防波堤」だった、ことを、ぼくは知らなかった。
@間接統治方式をとった占領期では、法案の審議過程には、さまざまな力関係が入りこむ。「取材」という機会を通して、そのプロセスに親近した筆者の観点は、この時期を考える者たちにとって、重要なヒントを与えてくれるように思った。
『日本文学』2006年5月号
- 『日本文学』2006年5月号が届く。専門外だが、水口幹記氏の「奈良時代の言語政策」は興味深く読んだ。
- よく考えてみれば当たり前なのだが、今も昔も、外国語はさまざまな権力を生み出す。水口氏は、「漢語」と「漢音」とは区別されている、という仮説をもとに、「正しい音」として政権が政治的に確定した「音」をめぐる、当時の学習状況について、ていねいにまとめておられる。
- 「日本語」の構築性、という話はよく聞くが、統一体としての「日本語」がまだ流動的だった時代を対象とした、こういう研究はほんとうに勉強になるのだった。
- それにしても、こんどの日文協の発表者の数は尋常ではない。でも、「国語教育部会」の発表者が増えたのは、背景などはまったくわからないけれど、全体としてよい傾向なのではないでしょうか。
「日本社会論」とは何だったのか
必要あって、中根千枝『タテ社会の人間関係 単一社会の理論』(講談社現代新書 ISBN:4061155059)を読む。
理論装置はシンプルだ。人間が集まって、組織を作り上げる。その原理を「場」「資格」という二つに還元したうえで、いずれを・どの程度重視するか、という発想から、社会の「構造」の記述を試みていく。
ちなみに、中根が記述する「日本社会」は、「資格」(=ヨコ)のつながりがなく、「場」を維持するための組織原理としての、「タテ」を発達させてきた、というものだ。
続きを読む著者がとくに力説したかったのは、こうした一定の「条件」というものを考慮して、日本人、日本社会の問題を考察することであった。筆者のいうこの「条件」とは、とくに社会学的条件である。社会学的条件とは、その社会の長い歴史をとおして、政治的、経済的、そしてもろもろの文化的諸要素の発展、統合によってつくられてきたものである。こうして形成された既存の社会組織(フォーマルおよびインフォーマル・ストラクチュアすべてを含む)自体も今日の日本人の行動をかたちづくる重要な条件なのである。(「あとがき」)